Miles Davis, Bags Groove, 日本の大学のグローバル化 [経営学〔組織と戦略〕]
Bags Groove / Miles Davis. 1954
経営学:日本の大学のグローバル化について
大学の国際化について前に書いたから,今日はもう少し具体的な話をしよう。経営学の教育,実務的意味についてだ。
日本の大学でこれまで行われてきた経営学カリキュラムは,強いて言えばこんなふうに言っているように思える。
- 経済学部や社会学部とはちがう理論を教えます。
- 会社に入ったらとりあえずとまどうことなく仕事を始めることができるくらいの基礎知識を教えます。
- 外国語は専門ではないので、自分で勉強してください。
そのかわり,こうも言っている。
- 抽象的な数学や統計分析は教えません。
- どんな部署に配属されても,まあまあのスタートは切れますが,そこから先の専門知識はOJTとか研修でがんばってください。
- 外国語を仕事で使えるようになるなんて考えないでください。
そんな中途半端なカリキュラムが,今まで、経営や商学系の学部の内容だった。少なくとも「グローバル化」改革に動き出す前は。中途半端になった理由はたくさんある。
- 国の教育政策が内向きだった。「教育は国家100年の計」などと主張しながら,教育政策は,学校を「就職予備校」視してきた。
- 大学の教師が国際化以前の世代だった。文献は英独仏のどれかのものを読むが,会話は苦手という世代。もちろん発音も日本語的で,外国の飛行場に降り立ったら,苦労の連続という世代だった。
- 出口の偏差値を決めるお客さん,つまり大企業の人事部が,「大学はよけいなことを教えるな。白紙で会社によこしてくれ,自分たちが自社にあった人材に育てる」と言っているかのような採用ポリシーをもっていた。
- 終 身雇用の慣行のもと,学生たちも,そういう大企業のポリシーを受け入れていた。大学では,もっぱら基礎知識,人間関係,決断力,リーダーシップ,困難な経 験をいかに克服したかの体験,などを経験すれば「内定」切符を入手できた。外国語のスコアや留学経験やましてや大学院のMBAなど「白紙」じゃない人材 は,昔は嫌われたものだった。
- なにより日本が豊かで,次の世代も成長していくような,夢と希望にあふれていた。日本の中だけで,人生が完結できる。ひとつの会社だけで人生が円満に解決できる,という約束手形が大学と大企業に流通していた。
もちろん、この20年間の長期不況で,そういう約束手形は空手形になった。
今や,大企業でも人材育成コストを削減して,「即戦力」を求めている。大学生も,ふつうのことをしていたらいい就職ができないことを感じている。文科省も,大学教育のグローバル化をさかんに主張するようになった。
かくして,大学にも危機感が走った。「このままではいかん」。そこでたいていの大学では,カリキュラム改革を行ったことは前にも書いた。
ここで問題だ。「経営学教育をグローバル化する,とはどんなことか」
- やっぱり英語だ。英語で外国人とコミュニケーションできるように教えよう。(その通りだ。でも,日本の大学生って,日本語でも他の人たちとうまくコミュニケーションできたっけ?)
- 経 営学のカリキュラムをグローバル・スタンダードにしよう。(アメリカのMBAならそういうスタンダードはあるけれども,ヨーロッパやアジアを含めて,グ ローバルな意味でのスタンダードとなるとどうだろうか? 第一,カリキュラムにWindows のようなデファクト・スタンダードが存在するとは思えない)
- 欧米の実業界の現状をもっとよく教えよう。(半分その通りだ。だけど,21 世紀をひっぱるのは中国やインドなどのアジア世界だから,好位置にいる日本は,アジアをもっと知るべきでは? アメリカもヨーロッパ諸国も中国やインドを 日本よりも勉強しているのだから,日本も遅れないで)
- 専門教育に時間を割け。(教育で,基礎を固めないで専門をすると失敗することは,法科大学院の多くが廃校になるであろうことからも理解できるのに)
多くの大学の必死の努力を揶揄するつもりはない。言いたいことは,今までの国内型,終身雇用型,新卒一括採用型に適合したカリキュラムの発想から,それを反動でひっくりかえしたカリキュラムを「国際化」教育とは呼べないということだ。
《組織変革論の基礎》
- すべての組織は歴史をもっている。変革するためには歴史を踏まえる必要がある。
- 小さな変革をたくさんするのは難しい。大きな変革をひとつせよ。
- プラットフォームを変えよ。
日本の大学制度は、戦前の旧制の歴史を引きずっている。それは100年以上前のドイツの大学制度を日本に輸入したものだ。グローバル化というのは、言い換えれば、ドイツ的なアカデミズムをアメリカ的なアカデミズムに転換しようということになる。
つ
まり、これが大切なのだが、ドイツ的なエリート主義、教養主義の大学を、アメリカ的な民主主義、大衆的な大学に転換するということだ。知識は一部の特権階
級(ドイツの貴族をユンカーと呼んだ。韓国のヤンパンみたいなもの)だけのものではなく、神秘的なものでもなく、論理がわかれば誰にでも分かる透明性を
もった民主的なものだ、という常識を社会に作ることが大切だ。「一高生」の哲学書に代表される教養主義はもう捨てよう。
ハーバード大学の公開講義,正義論を見ていて毎回感動するのは,学生の自主性を本気で尊重しているということだ。「ジョン,君の意見はこうだね,では,こういうメリーの意見に対してどう反論する?」と教授が司会者になる時間がいちばんもりあがる。いちばん民主的だ。
知のデモクラシーというものを日本の大学は知らない。大学は,教師が正解を教えるところではない。学生といっしょに知を創造していく空間なのだ。こういう意味でのグローバル化をめざすような、カリキュラム改革を急がなければ,日本の大学に未来はないと思っている。
マイルスのバグズ・グルーブはいまさらながら,名盤中の名盤。ジャズ初心者向けの本ブログとしても自信を持ってお勧めできる。
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