SSブログ
大学教育 ブログトップ

日本の大学は就職予備校か Kenny Burrell [大学教育]

kenny_blue_lights_2.jpg
Kenny Burrell / Blue Lights 2

2010年8月12日(木曜日)
ケニー・バレルのジャケットのアンディ・ウォーホールの2番目のものがこれです。
ラインの洗練さは前に紹介したアルバムジャケットと同じだろうけれども、やはり前のほうにちょっと分がある。

今日のブログのテーマは「日本の大学は就職予備校か」というもの。
問題は、大学だけに限らない、高校でも同じ課題がある。

続きを読む


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

日本の大学の業務 [大学教育]

ejs4029.jpg

2010年3月5日(金)
他の産業も同じだろうと思うのだが、教育産業の「現場」の日常業務はじつにめまぐるしい。ここでは私立大学の現場での業務のローテーション大、中、小をブログ的に考えてみる。

  • 2月の入試で始まり、選抜された学生たちが4月に入学して、4年後の3月に卒業していくという大きなローテーション
  • 4月から3月までの年度、中ローテーション
  • 毎週の講義や演習、会議、小ローテーション
現場の視点から見直すと、大学にはこういう「緊張感の流れ」とでも言うべきものがあって、業務が回転していく。
 
  • 大ローテーションは4年間というスパンで現場をみたもので、ポーター流の業界分析が適用できる切り口だろう。(今は five forces などは使わないけれど)
  • 中ローテーションは1年間のスパンだから、むしろ内部資源の戦略的活用に話は移る。(ここでは「模倣困難性」とか VRIO 分析などは使わないけれど)
  • 小ローテーションは1週間、ほんとうの「現場」、瞬間だ。

顧客は、受験生だったり、学部の学生だったり、ゼミ生だったり場面によって変わる。新入生、所属学部、120名、という場合もあれば、全学部、全学年から履修者、350名という教室もある。また顧客を選抜できるのは演習形式の授業だけであり、あとは学生がサービスの提供者を選んで履修する。

顧客はどうやって商品を選ぶか。ここでは、価格は一部しか用をなさないシグナルだ。
 
大ローテーションの場合、高校生が志望校を選択する際、学費、生活費などの経済状況も考慮するだろう。しかしそれだけでは決まらない。偏差値シグナルが大きな枠となる。
 
大ローテーションでは、サービスの提供側である各大学は、学部ごとに市場競争するのだが、受験生はW大学ならどこでもいい、などというブランド・ロイヤルティが高い産業でもある。もっとも最近は自分のキャリアを考えて、W大学を合格していてもR大学に入学するという自律的で将来有望な若者が増えているのも事実だ。
 
以前、ある千葉県屈指の私立高校で、進路指導の教諭が私にこぼした話は、「K大学に受かったのにわざわざG大学に入った卒業生がいた、いくらゼミに入りたい教授がいるとはいえ、世間はそういう評価はしない、こまった奴だ」と。僕に言わせれば、しっかりした高校生だなと思った。きっと立派なキャリアを作っていく子だろう。偏差値の輪切りなど、まして「世間の評価」などに自分の人生をゆだねてはリスクが高いだけだ。それよりもやりたいことを探して、有効な大学生活を送ったほうがずっといい。
 
センター試験世代などと言われる。僕らの大学時代も、講義中に教授に私語を注意された男がスッと立ち上がるや「僕はK大学は第二志望です。来年はT大を受け直します」と言い放って、教室を出て行った。その後、教授がまっ赤になって八つ当たりするのでたいへんだった。その映像が頭に浮かんだから、「K大に行かずにG大に行って、やりたい学問をやった高校生は立派だな」と思った。
 
これとくらべるといろいろと戦略がうてる中ローテーションでは、サービスの提供側は、良い学生に良い成績をつけるために、知恵をしぼる。
 
出席を毎回とる、などという基本戦略は、教室に私語と睡眠を蔓延させかねないリスクを背負う。私語を交わしている2人がいるとする、注意をせずに放っておくと、周辺の学生たちが迷惑そうに教師を見つめてくる、それでも意図的に放っておくとどうなるか。2人はおしゃべりに疲れてうっぷして睡眠をとる。僕はこれを「私語睡眠」と呼んで特許をとってある(嘘)。しかし私語睡眠は法則なので、ぜひ注意をしてみてほしい。
 
レポートをときどき課す、という戦略も効果的だが、なかなかレポートに個別にフィードバックする時間の余裕がないから、学生からすると提出し放し、というはなはだインセンティブをそぐ状況が起こる。

教師の側では、毎回の講義を反省しながら、次回はこういう方法で、もっと効果的に教育してやろうと燃えるわけだが、たとえばその結果として資料をたくさん配布すると、「資料が多すぎる」という学生評価アンケートを学期末にもらうことになる。パワーポイントでわかりやすく講義をしすぎると、「そのときは分かった気になったが、終わると何も残らない。レジュメがほしい」などと書かれたりする。

そんな学生の評価はおかしい、それでも教育か、と憤る向きがある。学生を、教育によって鍛えて人格を豊かにする対象だと考えると腹も立とう。今や、学生は顧客なのだ。
 
中ローテーションでは、顧客が履修科目という製品を選択する基準は、必修科目なら否応なし。選択科目なら豊富にある製品の中から、自分の週間スケジュールや興味関心、将来のキャリアなどによって選ぶことになっている。

しかし、そういう合理的な科目履修だけならいいのだが、実際には、楽に単位が取れたり、さぼっていても良い成績がくる確率が高い科目の情報が市場に流れるの は速い。楽して良い成績をとるのは、合理的な選択なのかも知れないが、カリキュラムの本来の趣旨からは外れている。楽をしたいという一時的な感情に行動が 流されているという意味で、実は非合理的な選択なのだ。

同じように、友人が履修するからという理由や、アルバイトやクラブ活動の時間帯の都合から、というのも合理的な選択とはいえないが、実際には少なくないだろう。
 
要するに、日本の大学とは、大ローテーションでは偏差値と評判という視点から評価されて競争している。中ローテーションでは、学生からの評価によって競争している。
 
最後に、小ローテーションでは、評価というよりは目前の業務をこなすのに専念する。 会議の準備にも結構な時間をとられる。もちろん20年も大学教員をやっていても、毎回の講義にはたいへんな準備が必要だ。世の中が移り変わっているから、題材や理論もどんどん新しいものになっている。それを吸収しなければ学生を大教室で私語睡眠させない話はできないと思う。
 
若手の教員は、自分の専門の話をむずかしい表現で講義するのが得意だ。10年選手になると、自分の専門的関心をどうやら教室の学生たちは共有していないらしいと気づくので、専門以外の話を題材に専門の話をするようになる。ちょっとずるくなる。20年選手になると、自分の専門的関心がますます深まり、研究が旬になる。そんな楽しい話をうっかり大教室なんかで始めたりしたら、いつ終わるか分からないし、分からせる自信もない。だから専門外の話を題材に専門外の話をするようになる。
 
つまり研究をしているうちに、専門が深まって教室の学生たちとの差がどうしようもなく開いてしまうのだけれど、それは何の専門でも20年もやっていれば、必然的に狭く、深くなり、ピンポイントの関心になっていくから当然なのだ。最大公約数の話、その分野でこれだけは通説に認められている話が講義だし、試験だが、研究をしている人間はそもそもそういう通説を破壊したいと願っている人間だから、講義に余談が多くなる。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感
大学教育 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。