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葉子の恋(6)星空 [葉子の恋〔小説〕]

 その冬、耕平は何度も白瀬葉子とランボーで会った。
 冬が過ぎ、ロシア教会の庭の淡い新緑が、春の訪れを告げるころになると、耕平には葉子といる時間がとても貴重なものになった。
 葉子は耕平の知らない東京を知っていた。耕平とはちがう世界を生きていた。
 神田の町、ビアホール、喫茶店、大学、下宿の三畳間、麻雀、これが耕平の世界のすべてだった。
 葉子は、画廊や美術館について話した。古い呉服屋の厳しい規律ある生活や厳格だが優しい叔父と叔母、洗練された趣味をもった従姉妹たち、銀座資生堂での食事、和光や三越での買い物、日本橋界隈のにぎわいなど、彼女が話すことは耕平には映画の世界のようだった。

 耕平は、そういう生活と自分の距離を思った。それはまた、目の前でくったくなく笑う葉子を自分の人生に関わらせたいという衝動のような希望であった。
 ある日、すっかり話し込んで暗くなった帰り道、耕平は星を見つけて、兵隊時代の忘れられない出来事を思い出した。葉子は歩きながら、熱心に耕平の話しを聞いていた。

 耕平は歩哨が苦手だった。冬の大津は比叡おろしで底冷えする。歩哨の肩には雪が積もった。寒さよりも嫌だったのは将校の検査だった。
  運悪く検査にあたってしまうと、歩哨兵は将校の質問に答えながら、飛行場を回らなければならない。「あの整備中の機は何型か」などの質問に答えながら歩哨 を勤めねばならないのだ。幸いなことに耕平はこれまで一度も当たったことがなかった。
 しかしついにその番がやってきた。

 真冬の一月、とくに底冷えがきびしい夜であった。本当の順番なら、耕平は次の晩の歩哨のはずだったが、当日の当番が腹痛のため欠席することになり、急遽、耕平が替わったのである。
 そういうタイミングでその夜の歩哨当番になった。

 耕平は兵舎から1キロほど離れた格納庫の前に直立不動で立っていた。時刻はそろそろ午前1時になろうとしており、比叡おろしの吹きすさぶなか、耕平は2回目の巡回に行くところだった。
 誰かこちらに近づいてくる人影がある。靴の音から、それが将校であることはすぐに知れた。氷点下の気温と乾ききった風のなかで、堅い長靴の音はあたりに響きわたる。
  耕平は緊張した。ほんとうに稀だが、連隊付きの少尉が眠れないとき、夜の散歩に来るときがあると仲間から聞いている。曹長とちがい少尉は学徒出陣のインテ リである。若く、質問も細かい。いいかげんな返答をしようものなら翌日厳しい罰が下される。軍隊の責任はすべて連帯責任といって、仲間たちもいっしょに負 わされる。それがつらいのだ。
 よりによって別の人間の代わりに歩哨をしているときに...そう思うと耕平は間の悪さに腹が立った。

 人影は、はたして連隊付きの香椎少尉であった。耕平は捧げつつの姿勢で敬礼をした。近くに来て、明かりのなかに入った香椎の顔が赤い。酒の匂いがした。どうやら酔い覚ましの散歩のようであった。
 少尉は耕平を見つけると、訊ねた。
「誰か」
「反田二等兵であります」
 少尉はうんと肯くと、いっしょに来い、というしぐさを右手でした。
 いよいよインテリ少尉の質問に答えながら、飛行場の飛行機を点検して回らなければならなくなった。

 耕平の心臓は破裂しそうだった。耕平は、自分よりかなり背が高い少尉の後ろからついていった。あまり近づくと質問が飛んでくる。遠すぎても不自然になる。少尉の後二三歩の距離を、その肩までしかない耕平が従った。
 少尉の頭上には、冬の空に数えきれないほど星が光っていた。

 耕平は少尉の横に来た瞬間、一計を案じて100メートルほど先の飛行機の前まで走り出した。そこで直立不動で少尉を出迎える恰好になった。
 そして少尉が近くまで歩いてくると、
「これは中島二式単座戦闘機キ44、隼戦闘機であります」
 と耕平は、質問される前に機の説明をした。
 少尉はうんうんと聞いている。説明が終わると、耕平は次の飛行機があるところまで駆けて、直立不動の姿勢で少尉を待ち、同じように説明をした。これを何度か繰り返せば歩哨は無事に終了する、これが耕平の作戦であった。
 しかし三度ほど繰り返したところで、少尉は笑い出してしまい、「もういい」と駆け出そうとする耕平を呼び止めた。

「おまえは何年生まれだ」
 と少尉が聞いた。耕平はきょとんとして、自分の生年月日を答えた。
 そうか、と少尉は空を見上げた。
 耕平には知るよしもなかったが、香椎少尉は5人兄妹の次男で、末っ子の弟といちばん仲がよかった。耕平はそのくらいの年齢だった。

「いいか冬の星座には、冬の大三角というものがあるのだ」
 少尉はそれから星座について耕平に教えた。シリウス、こいぬ座、おおいぬ座、カノープス、次から次へと香椎は耕平が理解しようがしまいが、星座の位置を指で星空に示していった。まるで故郷のあぜ道を、弟と散歩をしているときのように。
 旧制高校から帝大に進んだ香椎には、古代ギリシア神話など教養の一部にすぎなかったけれども、耕平には生まれて初めて聞く話ばかりで、香椎が別の時代の人間のように感じるのだった。

「それで、その香椎少尉さんはどうなさったの、無事に帰国されたのかしら?」
 耕平の話が終わると、葉子は心配そうな顔でそう聞いた。
「それが、俺もいろいろ聞いてみたんだが、南方に出撃したきり消息不明なんだ」と耕平は、夜空を見上げた。
「そんなの、しかたがないのでしょうけれど、なんだか哀しいわ」
葉子も、星空を見上げた。


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