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葉子の恋(5)ランボーでの再会 [葉子の恋〔小説〕]

 耕平の目から見れば、自分は、白瀬葉子を守りながら子供のころを過ごした。
 守る、というのは耕平の気持ちである。葉子にもかすかに伝わっていたはずの、耕平の秘めた気持ちであった。
 少年兵になった2年間、耕平は葉子から遠くにいた。兵隊に行く前に、耕平は心の中で葉子への気持ちに訣別したつもりだった。まさか生きてふたたび故郷の、葉子の前に帰ることができると思っていたわけではないし、葉子と自分が「身分ちがい」であることも子供ながらに理解していたからである。
 ただ、できることなら戦死する前にもう一度だけでも葉子に会いたい、と耕平は思った。

 敗戦後、耕平は再び故郷の土を踏んだ。耕平が生き残ったのは偶然としかいいようがなかった。飛行兵の耕平が特攻に行かなかったのは、彼が軽い蓄膿症だったおかげだった。

 耕平は、再びY村に戻ってきた。といっても彼はまだ十八であった。少年飛行学校を出たものは大学受験の資格が得られたので、耕平は父親の勧めに従って駿河台にある私立大学に進学した。

 飛行学校で整備をしていたので、耕平は工学部機械工学科を選んだ。
 大学では軍隊とちがって、誰にも命令されず、誰にも殴られなかった。耕平は、好きな機械いじりを毎日して過ごした。夏休みにも銚子の家には戻らずに、駿河台の下宿から研究室に通って勉強を続けた。

 駿河台の大学と下宿を行き来する以外に、耕平は神田神保町の古書街にときどき出かけた。靖国通りからちょっと路地に入ったところにランボーという喫茶店を耕平は気に入って、よく通った。
 地下階でクラシックを聴きながらコーヒーを飲み、たばこの煙の中で機械の図面を眺めていると、耕平は軍隊の2年間がまるで映画か何かのように感じた。子供のころ父親の書斎から流れてきた音楽が、今、耕平を癒していた。父親が好んで聴いていたのはブラームスとモーツァルトだったことも知った。それよりも耕平はバッハの淡々とした平均律の冷静さが好きになった。

 こうして大学の3年生になった師走のある日、耕平は、いつものようにランボーに行った。
 冬の空はしぐれていて、灰色の分厚い雲が心細い冬の午後の陽光をさえぎっていた。
 ランボーに入るとき、耕平は空を見上げて、「夜は雪になるかもしれない」と思った。
 店内では、まばらに入った客たちが静かに流れてくるシューベルトの「冬の歌」に耳を傾けている。耕平は、いつものように階段を下りようとした。そのとき、目の前のカウンター席にぽつりとすわっている少女の横顔に目がとまった。
 その白い、面長の顔にはたしかに見覚えがあった。

 耕平はたちどまって、少女の鼻筋の通った顔を見つめた。
「あっ」と心の中で叫んだ。白瀬葉子だった。

 戦争が終わり、農村の民主化政策によって葉子の家がその広大な土地のほとんどを失ったとき、葉子の父は目立つ娘を田舎に置いておくことが不安になり、神田で老舗の呉服屋を営んでいる親戚に娘を預けたのである。それを嫁入り修行と考えたらしい。

 耕平は葉子より一足早く上京していたから、彼女が同じ町に住んでいることなど知るよしもなかった。
 葉子は神田に移り住み、呉服屋の20名からなる丁稚や従業員たちの食事を作る手伝いをしたり、日本橋の店までつかいに行ったり、日曜日には叔母や従姉妹と銀座に食事に出かけたりしていた。一人で近くの喫茶店に来て、こうして音楽を聴いているのも、葉子のお気に入りの時間だったのである。

「いらっしゃいませ」
 耕平はウェイトレスの声で我に返った。そして葉子のすわっているカウンター席に行き、彼女に控えめに声をかけた。
 葉子はびっくりした様子だったが、すぐに表情をゆるめた。
 久しぶりに聞く故郷の言葉に、葉子が懐かしさのあまり微笑んだとき、耕平の心はその笑顔に吸いこまれた。

 耕平は、彼女の笑顔が見たくて冗談を言い、葉子が笑ってくれるとうれしくなってもっと話した。
 葉子の何もかもが、その真ん中から分けた白いブラウスの襟元のレースまで届く、癖のない髪も、清楚で知的な白い肌も、よく動く瞳も、意外に大きな笑い声も、耕平を惹きつけて離さなかった。 

 ランボーで30分も話しただろうか。葉子は、もう帰らなくてはと言い、席を立った。
 耕平も席を立った。葉子は、グレイ地にブラウンの細かいチェックが入った高級そうなツィードコートの4つボタンをきちんとしめて、歩き出した。

 店を出て並んで歩くと、背の高い葉子は、耕平と同じくらいのところに目線があった。身なりをかまわない彼に対して、葉子の服装も話し方もすっかり洗練されていてまるで別世界の人のようだった。
「じゃあ、またいつか」
 神保町の交差点で、そうにっこり微笑んだ葉子は、コートをひるがえして神田のほうに歩き去った。
 耕平は、またいつかがあるのだろうか、とだんだん遠くなる後ろ姿を師走の人混みの中に見えなくなるまで見送って、たまらず後を追いかけた。

 雑踏に葉子の後ろ姿を見つけて、耕平は、
「おれもこっちだから、途中まで送っていくよ」
 と声をかけた。
 葉子は首をかしげて、よく動く黒目がちの目で耕平を見つめたが、小さく肯くと肩を並べて歩き出した。


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