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葉子の恋(4)連翹 [葉子の恋〔小説〕]

 れんぎょうの咲いた黄色い山道を通り、岩の山階段を何度か登りつめると、目の前に空が開けて、浅春のぼんやりとした空の下には、午後の陽光を照り返す庄内浜の湾が一望できた。
 二宮葉子はこの空と湾の景色が好きだった。
「もう七回忌なのね」
 母が墓に線香の支度をしながらつぶやいた。
「お父様はここの眺めがお好きでしたね」
 葉子は母にそう答えながら、父のお骨を満州からここに運んできた日のことを思い出していた。
 あれから何年かして戦争が終わり、母と二人の慎ましい暮らしが続いている。この何年かでどんなに世間が変わったことだろう。この春、女学校も卒業した。

 二宮家先祖代々の墓、とある右側に、二宮國昭享年三十七歳と真新しく彫られている。お焼香をすませて、立ち上がってふり向くと、日本海に続く湾の青さがまぶしかった。

「あら」と、母が声をあげた。
「葉子、見てごらんなさい、鳥海山が見えるわ、めずらしいわね」

 母の着物の指の向こうには、鳥海山の残雪が、春の霞んだ空を区切っている。なだらかな裾野の里にもう桜が咲きかけている。
 葉子は鳥の鳴き声に耳をすました。父の声がしたのである。
 鳥が木漏れ日にかくれて影となって飛んでいったあとは、葉子がどんなに耳をすませても、木の葉が海から吹き上げてくる風にざわめいくばかりであった。

 木の葉のざわめきのなかに葉子は、けっして多くはない、それだからこそ大切な父との時間を思い出していた。勉強の時も、剣道の稽古の時も、父は自分を甘やかさなかったと思う。周囲とはちがう自分が、世間の中で生きていくための強さを教えようとしていた、そんな父の気持ちを言葉ではなく葉子は感じていた。敵と戦うための武道ではなく、自分と闘うための凛とした精神を父は遺そうとした、と。

「お母様、聞こえた?」
 手桶の水の残りをそこらに巻いて、帰り支度をしていた母は、不思議そうな顔をして葉子を見返した。
 後になって葉子は、このときの小さな奇跡が、母一人、鶴岡において上京する決心をさせたと、思うようになった。
 もしこのとき小鳥のさえずりが葉子の運命を変えたのだとしたら、それはもう一人の葉子の運命も変えることになるのである。
 


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