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英国離脱(Brexit)とグローバル化の終わり [経営学〔組織と戦略〕]

英国離脱(Brexit)とグローバル化の終わり 

2016年6月24日(金曜日)

驚きの大逆転だった。朝方は、やはり離脱はないだろうという想定でマーケットは動いていた。「いくら難民問題があっても、失業率が高くても、いろいろな国でトランプみたいな声が大きくなっていても、最後は英国紳士の理性的な判断が事を収めるだろう」 というのが「想定」だった。

ところがBBCで開票速報が進むと、残留派の本拠地スコットランドでも意外に離脱派が票を伸ばしたり、各地で離脱派の底力がひしひしと伝わってきた。そしてお昼前にBBCが離脱派勝利の速報を出すに至り、「想定外」の虚を突かれたマーケットは大荒れに荒れた。アルゴも起動して荒れた東証では、ついにサーキットブレーカーが取引をいったん止めた。「リーマンショック以来の世界経済危機」という文字が頭をよぎった瞬間だった。 

 

EUの歴史的意義についてここではくり返す必要もないだろう。かつてドイツにいた僕は、普仏戦争から、第1次世界大戦、第2次世界大戦の大きな戦争がヨーロッパ本土を焼け野原にしたとき、それぞれの国や民族の壁を超えてどうすれば平和に共存できるかというヨーロッパ共同体の精神を肌感覚で感じた。クローズドに各国の利益を追求すると地続きのヨーロッパでは、まず争いが始まってしまう。だから各国の利益は二の次にして、オープンに共同の利益を追求しよう、という精神は、イギリスによって破棄された。

これはイギリス保守党のひきおこした、党内の争いを国民投票に丸投げした恥ずべき結果であり、イギリス政治の敗北の記念日である。もちろんキャメロン首相にその大きな責任がある。しかし支持母体の労働者層に気兼ねした労働党も責任はないとはいえない。

フランスでもイタリアでも、ドイツでさえ、民族主義的な「離脱派」は急速に支持を伸ばしている。今日のイギリスの結果は、明日のヨーロッパの予想図なのかもしれない。

しかし話はここで終わらない。国がEUから離脱するなら、スコットランドは英国から離脱すると表明したではないか。まてよ、あの国には北アイルランド問題もあるなあと思い出せば、今回のレファレンダムが自らの首を絞めることになるのは想像がつく。次はスペインの選挙が待っているし、来年は、フランスとドイツで大統領選挙と総選挙がひかえていて、マーケットは「リスクオフ」を決め込むほかないはずだ。流動性が枯渇していくと、世界経済はどうなるか? 中国経済が政府のマネーでギリギリ崩壊せずにいることを忘れてはいけないし、原油がもう少し価格を戻すと、一時的に止めてあるアメリカのシェールが再開する可能性もある。 

ブログを読み直して、今日はとりあえず冷静になろうと思ったら、2007年7月17日の本ブログで、僕は『レクサスとオリーブの木』(トーマス・フリードマン)の感想を書いていた。同じ年の7月24日には『世界のフラット化』について書き、その後ゲマワットのセミ・グローバル化に触れていた。ほぼ10年前に書いたものだが、ここで部分引用するのを許してもらいたい。

 

  •  以下引用(2007年7月17日のブログから)

 

トーマス・フリードマンの『レクサスとオリーブの木』(草思社、2000年)はあまりにも有名な本だ。そのアプローチはたしかに古い部分もある。しかし今もなお新鮮なところもある。新しい読み方をしてみたら、日本の問題を考えるのに有効だ。

(中略)

新しい部分
グローバル化を実現したインフラとして、3つの民主化をあげている。技術の民主化、金融の民主化、情報の民主化がそれだ。それに加えて、4つめの民主化として意志決定の民主化(権限の分散)も付け加えられている。これは今でも通用する議論だ。

「レクサス」とは「グローバル化経済システムを構成しているすべての市場と技術」の象徴だ。今日、世界中の人が、国境がなく、均質化された標準品(レクサス)を欲しがっていると指摘している。

「オリーブの木」とは、自分のアイデンティティや共同体の価値観の象徴だ。人間にはレクサスを欲し、オリーブの木を守ろうとする自然の欲求が備わっている。

今、この自然の2つの欲求がジレンマに陥っていることを示唆したフリードマンの説は、今日の日本社会にぴったりあてはまる。

物質的生活の向上と、ローカルな文化を内面化した自分のアイデンティティ、その2つの葛藤が「レクサスとオリーブの木」が象徴しているものだ。 

ヨルダン川の両岸に、節くれだったオリーブの木が立っているという。いまだに、人々はどのオリーブの木が誰のものかを争っているらしい。それは家族、共同体、故郷、国家の象徴なのだ。

僕たちは、レクサスとオリーブの木、どちらを大切にすべきなのだろう。

どちらも? そうどちらも大切だが、それがトレードオフであるのはなぜだろうか。

グローバル化はこのトレードオフを顕著にしたが、グローバル資本主義はそれをどうやって解決していくのだろうか。 そう問いかけて、思い出すのはジョージ・ソロスが『グローバル資本主義の危機』(日本経済新聞社、1999)で警鐘を鳴らしていたことだ。

「グローバル資本主義システムは純粋に機能的性格のものであり、その機能は、当然のことながら、生産、消費、モノやサービスの交換といった経済機能である。(中略)システムの拡大に伴い、この経済機能が人々の生活や社会を支配するようになり、文化、政治、専門職など、それまで経済活動とはみなされていなかった分野にも侵入してくる。」(邦訳、p.171)

まさに「侵入」してきたのだろう。僕たちの文化や精神生活は、今では経済の言葉で語られるようになった。しかも特定の型の経済で。短期的で、営利至上的で、個人主義的で、合理的期待の「経済」で。グローバル化はこういうトレードオフを発生させ、自滅していくのだろうか。それとも解決法があるのだろうか。

  • 引用終了

この問題は、今でも解決されていないどころか、「レクサス」から「オリーブの木」に地球は逆回転を始めたようだ。さあ、これからは未知の世界だ、「統合」することが政治だった、そこからグローバルな経済基盤ができて大きく成長した。しかし「分離」が今日から始まった。

 


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