外国語を学ぶ [ジャズ日記]
2010年5月22日(土)
最近,幸運な人にあった。学生時代にやりたいと思った仕事に就いた人だ。しかも20代でその職に就いたのはその大企業では彼しかいないという。仕事は当然きつい。終電で帰宅できることは稀で,朝,明るくなってから帰宅することも多いらしい。しかし表情は学生時代よりも輝いていた。彼を幸運と言わずに誰を幸運というのか。
僕自身も,第一志望ではなかったにせよ,希望した職業に就いたから幸運と言わなければならない。どの仕事にも,どの組織にも,いいことばっかりはないよ,という常識は前提にして,彼や僕は幸運の船に乗って職業人生を始めたはずだ。そういう船に乗れなかった人は,僕らよりも能力が劣っていたわけではないだろうし,努力が不足していたわけでもないだろう。何かの理由で、幸運船には乗れなかっただけなのだ。
企業の成功要因を統計的に因子分析していくと,幸運という要素が40%台を占めるという調査研究がある。 経営者の能力は10%台だったと記憶する。業界の選択もそんなに高くはない。資源もほどほど。どんな経営戦略論の理論も幸運という因子にはかなわない。バーニーにも90年代の論文で lucky について言及した箇所がある。
結局,人も会社も運しだいという,祖母の口癖にも一理あるわけだ。
幸運だからこそ,趣味に時間が使える。中学1年生の春,竹橋にあった科学技術館へ学年旅行に行った。夏めいた暑い日だった。その日,どこかのインターナショナル・スクールの生徒たちも来ていた。彼ら,彼女たちの話す音楽のような言葉が、僕には最初のカルチャーショックだった。
前にも書いたかも知れない。小学5年生のときに,母に頼み込んで英語塾に行かせてもらって,日本人の高校の老先生が読むリーダーが英語だと信じ切っていた。それは石川啄木のローマ字日記のような英語であった。
中学一年生の春,インターナショナル・スクールの生徒たちが話していたのは,老先生の英語とは似てもにつかない別の言葉だった。まったく一言も理解できなかったことがショックだったのではない。その流れるようなブロンドの,いやいや,サウンドの美しさが僕にはショックだった。英語に一目惚れだったと言える。
それから英語好きのかたわら,映画の影響で,パリに留学して,客死することを人生の究極の目的とする高校生になった。フランス語は高校生の僕にはさらに美しく響いた。大学4年まで,僕はフランス語に多くの時間を使った。大学院の入試もフランス語受験で,点はかなりよかった。
しかし大学院の二次試験,つまり面接で,私の恩師が「組織論をやるのならドイツ語をやらねば」とおっしゃったのでガクッとした。恩師が大阪外大ドイツ語科卒であることは,あとから知った。「ドイツ語の辞書は毎年,1冊づつだめにした」というドイツ語好きであったこともあとからわかった。
22歳から僕とドイツ語のつきあいが始まった。名詞に性別があるのはフランス語で慣れていたものの,格変化がめんどうだった。最初のドイツ人教師は僕の発音を聞いて吹き出した。「フランス語なまりを直さねばどうにもならない」という。
最初,ドイツ語は嫌いであった。まさか後に留学するとは思っていなかった。なにしろパリに行かねば,という思いはまだ心に強く残っていた。でも結局,ケルンで学び,ミュンヘンに住み,北ドイツの田舎の大学町に住んだ。
英語,フランス語,ドイツ語それに旅行用のイタリア語(かなりいいかげん)を学んだので,もう外国語はいいや。そう思って油断していたら,いい歳になって韓国語につかまった。これは思春期の英語ショックと同じくらいのインパクトがあった。
最初はハングル(文字のこと)がまったく頭に入らなかった。韓国語の最初の先生も,僕には半ばさじを投げていた。1年半くらい学ぶとも学ばないともしていたら,ある日,急にハングルが入ってきた。そしてあの日本語の先祖ともいうべき文法,語法,語彙にはまっていった。そこには日本語がどういう歴史をたどってきたかが示されているようだった。韓国語についてはまた日を改めよう。長くなりそうだから。
ご趣味は?
ーー外国語の辞書を読むことです。
はあ?
ーーでも,楽しいんですよ,ほんとに。
そんなに外国語を学んで何か役に立ちますか?
ーー役に立たないから教養っていうんですよ。
なるほど。(やっぱり暇なんだな)
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