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Carla's story 9.天上の愛と地上の愛 [Carla's Story〔小説〕]

 カウンターとテーブルが2つだけの小さなバーで Carla は僕を待っていた。
 奥のカウンター席でペーパーバックを読んでいる彼女はすぐにわかった。
「ごめん、駐車場が混んでいて」
「それでどうだったの?」
 心配になると美しい眉にしわをよせる癖があった。
「いいニュース、それとも悪いほうから聞きたい?」
 僕はちょっとまじめに言った。でもきっと顔は笑っていたかもしれない。

 Carla の顔を見るとそれまで考えていたことがすべてゼロになってしまう。なにも考えられなくなり、ジョークばかり言っている自分がいた。
 これはドイツ語で話をしているせいなのか。もし彼女とどちらかの母国語で会話していたら、もっと別のことが話せたのかもしれない。
「そうね、悪いほうからお願い」
 Carla は白いカクテルを飲みほした。
 僕はどう話そうか、コロンビア大学からここまで来る途中でずっと考えてきたけれども、Carla には何をどう話しても結局はオブラートに包んだり、隠したりすることはできないのを知っていたから、楽しいとは言えない学会の権威との面談をそのまま話した。

「要するに」と言って、パレノフスキー教授は立ち上がった。
 美術書がぎっしりつまった本棚の壁に囲まれた机に座っていた教授は、ゆっくりとその大きな身体を動かして、窓際の小さな小物入れからパイプをとりだして火をつけた。パイプが小さく見えて、教授の立派なグレイのひげに火がついてしまいそうだった。
 教授は立ったまま、窓から遠くを見て言った。
「要するに、君は美術研究のなかでいちばん難しい問題に取り組んでいるわけだ。そう、デューラーとメランコリアなんて、何千本の論文と何百冊の研究書が我こそは真実なりと言ってコロンビア大学の図書館に眠っている、そうでしょう?」
「その通りです、教授」と僕は礼儀正しく答えた。
 まさにその通りなのだから、それにパレノフスキーが僕を攻撃しているとも思えないトーンだったから。
「私が読んだ限り、君の論文はいくつか重要な示唆がある。フィチーノからミケランジェロへの影響の解釈はおもしろい。ゲルマンからみたルネサンスの世界像についても、そう、なんというか新鮮な解釈と言わねばならない、と私は思う」
 ここで突然、パレノフスキーは声のトーンをバリトンからメゾソプラノに転調して「ああ君、フィレンツェのドイツ研究所のシュミット教授を知ってるね」とこちらを振り返った。
「はい、もちろん。ミュンヘン大学の私のドクトルファーターですから」
「そうだろうね、こういう角度の研究は彼だろうね。結構」
 と教授は自分の推理に満足したようだった。
 そして、ミラノから送っておいた僕の論文について後半のコメントに入った。
 絵画の話になると、パレノフスキーはなぜかバリトンに戻る。そしてしかめっ面をして、さも嫌いな食べ物をディナーに出されたパーティーゲストのようなトーンで話した。

「それで、パレノフスキーが言ったのは」
 と僕は、アジア系バーテンダーたぶん中国か台湾の女の子が運んできたビールを一口飲んだ。
「僕の本はデューラーのなかに、ボッティチェリでいえば天上の愛と世俗の愛を見出そうとしているというんだ」
「『ウェヌスの誕生』と『春』の両義性?」
「うん。アプロゲネスだけでは満たされなくなったルネサンス人が、『春』の世俗の愛を求める、そういう両義性を指摘された」
「どうなのかしら。パレノフスキーにしてはずいぶん平板なコメントに思えるけど。あなたの研究はその逆を言っているわけでしょう?古代的なものとの関係というか」
「そう思うだろ、Carla。構想を練り直すしかないけど、できないことはないからやってみるよ。デューラーとルター派との関係も練り直しかな」
「わたしたちイタリア側から見ると、北方ルネサンスでルター派の問題がわかりにくい部分なの」
「マニエリスムになるとよけいわからなくなる?」
「そう。デューラーとは時期が半分ずれるけれど」
 僕たちは少し話してから店を出た。

 それにしても、5月のニューヨークはなぜこんなに美しいのだろう。「Autumn in New York」という歌があるのに、なぜ5月を歌にしなかったのか。そんなことを話しながら僕たちは駐車場まで5分ほど歩いた。

 アッパーウェストからダウンタウンの僕らのホテルまで、車で20分以上かかった。車を駐車場に入れて、近くのイタリアン・レストランに行った。
 まだ時間が早いから、窓際のいいテーブルに案内された。雑々とした通りがよく見えて、最近の僕たちのお気に入りのテーブルだった。
 ワイングラスが2つ、テーブルに運ばれてきた。
 Carlaは言った。
「それで、いいほうのニュースは?」
「出版社に紹介してくれることになった。しかも推薦文つきで」
「じゃあ」
「そう」
「もうここには居なくてもいいってこと?」
「もちろん」
「来週でもミラノに帰れるってこと?」
「そういうこと」
 Carla はキャッと叫んでテーブル越しに僕に抱きついた。僕が反射神経でテーブルのグラスをどかさなかったら、きっと彼女のモスグリーンのワンピースにワインのシミがついていたと思う。
 両手にグラスをもったまま腕を広げて、顔中にCarla のキスを受けながら、僕は考えていた。
 この愛は、天上の愛なのか地上の愛なのか。そして結局、それはどちらでもあるように思えてきた。なぜなら、Pascal 風に言うなら、僕たち二人がいつか確実に消えていく地上のものでしかないのだから。
タグ:小説
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