SSブログ

葉子の恋(2)二つの宴・後編 [葉子の恋〔小説〕]

 白瀬家で葉子が生まれた、ちょうど同じころ、白瀬の家から遠く離れた中国大陸の奉天(現在の遼寧省瀋陽)の北、柳条湖にも夜のとばりが降りていた。
 その夜の闇の隅に、南満州鉄道の線路脇に日本軍が息を潜めて隠れていた。遠くシベリアから冷たい冬の風が、彼らの頭上を砂漠のほうに抜けていった。
「さあ、一ヶ月の宴会の始まりだ」
 部隊前方で二宮國昭中尉がつぶやいた。

 この関東軍青年将校の脳裏には、連隊長や他の将校たちとの「中国一撃論」がある。
 これは当時主流だった中国は一ヶ月で降伏するという議論である。今、中国をたたいておくことしか、ソ連と中国の二面対峙を避ける術はない。二正面作戦こそいかなる戦訓も示している、もっとも避けるべき戦法である。そして一ヶ月で中国は降伏するという、もっともらしい理論が当時の陸軍将校のエリートには流布していた。

 もしその仮説が本当なら、「軍事的合理性」の観点から青年将校たちのとるべき行動は「独断専行」以外にはない。 青山の陸大校舎で、あるいは大連の将校室で、何度も参謀本部第一部第二課の「天保銭」組でもエリート中のエリートたちから聞かされてきたこの理論に、二宮が完全に納得したわけではない。統制派のエリート臭を好きになれなかった。
 かといって皇道派の、二言目には北一輝を振りまわす精神主義にも冷めた距離を感じた。しかし心情的には、山形の農民出身の二宮は皇道派、この下火になりつつある思想にシンパシーを感じた。
 実際、二宮の陸士の同期は半分とまではいかなくても「平民出」が多かった。彼らは、貴族出身しか将校になれないドイツ将校団とは対照的に、一般兵士に強い一体感を感じていた。

 二宮の目の前に、10名からの兵士たちが闇に潜んでその時を待っている。彼らの丸いヘルメットの上を、黄砂を運ぶ風がふいた。
「やるしかない」
 二宮は右手を挙げた。
 一ヶ月の宴で終わろうが、中国大陸全土に数年続く全面戦争になろうが、今は命令を実行するしかなかった。
 兵士の一人が爆破装置のレバーに手をかけた。そのとき、見張りの最前列から白い手袋の手が上がった。部隊にさっと緊張がはしった。
 二宮は挙げた手を中止に変えた。報告の兵が砂ぼこりをあげて走ってくるのが見えた。

「何、赤ん坊?」
 線路上に帯で包んだ赤ん坊を置いて逃げていった女がいるという。
「中隊長殿、時間です。遅らせると次の汽車が来ます。爆破しましょう」
 直属の少尉が顔を引きつらせて、二宮に叫んだ。
 二宮は、統制派の一夕会に出入りしているらしいこの「石原」派が嫌いだった。
「いや、待て」と返事をした。
「貴様、帯で包んであるという報告を聞かなかったのか。日本人の赤ん坊だ。誰か、助けに行ってこい」
 しかし、緊張した空気の中、とっさに動く者はいなかった。二宮は自分で線路まで歩いていき、悠々と赤ん坊を抱いて悠々と戻ってきた。それは、まぎれもなく人間の赤ん坊であった。脇の兵士にそれをあずけると、二宮は爆破の合図をした。
 それは、あとで歴史に残るにしてはあまりにも小さな爆破であった。
 その爆破の知らせを受けると、準備を整えてあった関東軍本部はすぐさま動き出した。

 二宮は、本部に帰り報告等を終えると自室に戻った。そのとき彼は、兵にあずけたあの赤ん坊が「証人」として処刑されていないかがふと気になった。まさか、と思うものの、部下を部屋に呼びつけた。
「あの赤ん坊はどこにいる」
「はっ」
「あの線路の赤ん坊は今どこだ。安否を確認して、いや、すぐに、ここに連れてこい」

 ふだんの二宮中隊長らしくない命令だった。しばらくして部下は、兵がふるえていた赤ん坊をお湯で洗って温めたのか、清潔な白い布に包まれた赤ん坊を抱いてきた。
 二宮は結婚していたが子を授からなかった。慣れない手つきでおそるおそる赤ん坊を抱いて、明るいところで見ると、目鼻がはっきりした凛々しい顔立ちをしている。
「立派な男子ではないか、どうだ、将来の陸軍士官だ」
 二宮は自分のとっさの判断が正しかったと言いたげであった。
「中尉殿、女子であります」
 部下は、直立不動のまま答えた。
 二宮は驚いて、腕の中で気持ちよさそうに欠伸をしている赤ん坊を眺めた。この子のことは上には報告していない。明日、妻に引き取りに来させよう、と考えた。
 二宮は部隊に箝口令をひいて、この赤ん坊のことはすべての日本軍の公式文書から消えた。


nice!(0) 
共通テーマ:blog

nice! 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。