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葉子の恋(1)二つの宴・前編 [葉子の恋〔小説〕]

 残暑の厳しいある九月の遅い午後である。関東平野の太平洋沿いにあるY村では、だだ広い平野に西日が照りつけていた。

 Y村の中でいちばん大きな建物は、周囲の田畑を睥睨するようにそびえ立っている庄屋屋敷である。
 江戸後期に建てられた木造三階建のその屋敷内には、使用人だけでも20名は下らない人間が住んでいた。
 海側には神社のような防風林が屋敷を守り、敷地内には馬舎、牛舎があり、大きな門の内側には使用人の宿舎が建っていた。

 風もなく、遮るもののない西日だけが、くっきりとその家に影をつけていた。
 門から続く手入れの行き届いた日本庭園庭のまん中にはヘチマの形をした池があって、ときおり大きな鯉が池の水面から跳ねては庭師たちの目を奪った。
「どうだ、もういいかげんに生まれたか」

 西日の当たる長い縁側を、もう3時間も行ったり来たりしているせいで、小太りの男の額には汗が光っている。
 腕まくりした真新しいワイシャツの背中も汗でぬれていた。仕立てのいい背広も、縁側に面した応接間のシャンデリアの下にある英国調のソファーの上に無造作に放り投げてあった。
 テーブルの上には、麦茶の飲みかけたコップと、ウィスキーのグラスが置かれていた。

 この男、白瀬喜左右衛門は、今年、昭和6年で五十になる。
 この辺りの代々続く庄屋である。父親の善右衛門ほどではなかったが、彼もそれなりの男前だった。そしてこれも父親ほどではなかったが、彼も若いときはなかなかの遊び人だった。
 夫と息子の二代にわたる芸者遊びを見るにみかねた母親のとめが、三十半ばで嫁を取らせたのが一回り離れた喜左右衛門の妻、菊である。

 その菊は今日、六番目の子を産もうとしている。
 喜左右衛門にとって心配なのは、菊は産後のひだちが悪いことだが、自分がいつものように大事にしてやれば、またしばらくは寝込むだろうが、大丈夫だろうと考えている。
 とめは、菊が嫁いできてから、息子の芸者遊びがぴたっとやんだと喜んで、親戚の集まりで話した。母親が喜ぶのをみると、また喜左右衛門は家業に精を出すのだった。

 実を言えば、遊び人で知られた父、善右衛門が二度も三行半を出して嫁を泣かせたこともあって、喜左右衛門の嫁探しは予想以上にてまどった。
 少し離れたところの地主の長女に、とめの気に入る娘があった。しかし気がかりだったのはその家が耶蘇教だと聞いたことであった。
 善右衛門は、そんなものは何でもなかろう、と遊び人のおおらかさで笑ったが、とめとしては、そんな言い方は気にさわった。
「あなた、無教会派というとどんなものですか」
「成田の家は無教会派か、いずれキリスト教じゃろ」
「いずれって、あなた」
 そう険を立てるとめだったが、一度、先方に出向いて菊に会ってからはつきものが落ちたように何も言わなくなった。
 菊はそれほど清楚な美しい娘だった。

 三十半ばになっていた喜左右衛門も、最初は結婚生活を面倒がったが、菊を敬愛するようになるまでにそう時間はかからなかった。
 菊の平等主義思想は、自暴自棄になって遊んでいた喜左右衛門の乾いた心に浸み入った。
 少なくとも善右衛門が遊び半分で放っておいた肥料会社を立て直したのは、事業による人助けという思想があった。

 その日も、菊の出産が近いというのに、喜左右衛門は午前中からお昼過ぎまで、小作の相談に乗っていた。近年の不作で、借金の相談にくる小作の百姓は少なくなかった。彼は、父親の代に始めた肥料会社も力を入れたが、お天道さまのことは仕方がないと小作たちに話すのだった。

 実際、自分の地所を歩いてみると、農村の疲弊はすさまじいものがあった。
「東北では娘を売ってるらしい」
 と先日も、都内にある肥料会社の事務所に立ちよった帝大時代の友人から聞いたばかりだ。自分の所も、いつそんな看板を村役場が出してもおかしくはなかろう、と砂ぼこりの舞う風景を前に、喜左右衛門は思った。
 肥料会社も財閥系大企業のしめつけで財務が逼迫しつつあった。このままでは、友人が言うように、平壌あたりに出て、財閥系のいない新天地で巻き返すほかどうしようもないのだろうか。しかし、そうやすやすと先祖代々受け継いできたこの土地を離れることも、喜左右衛門にはできなかった。

 奥の間から、赤ん坊の泣き声が聞こえたのは、もう日がとっぷり暮れたころだった。
「だんなさま、だんなさま、女の子ですよ」
 と、産婆と女中が大声を出した。
 菊も疲れているが無事だという。力が抜けて応接間のソファーに座りこんだ喜左右衛門に、善右衛門が「たえはどうじゃ」と大声で言った。
「いや、名前はもう二人で決めてありますから」
 喜左衛門は断として答えた。
「あら、なんていう名前なの」とめが、からかうように言った。
「ようこです。葉っぱの子、葉子です」
「ほお、そりゃずいぶん、そのなんじゃな、モダンな名前じゃな、そりゃいい」
 と善右衛門はご機嫌だったが、とめは気に入らなかった。
「葉子、白瀬葉子か、いい名じゃ、いい名じゃ」
 とめの不機嫌に気づかぬふりをして、善右衛門はウィスキーのグラスを片手に上機嫌だった。

 家の縁側の外には、残暑の静かな夜が訪れていた。
 先代が造らせた凝った日本庭園の池まで、応接間のウィスキーとシガーが香っていた。その香りに、番犬の二匹の秋田犬がひくひく鼻をうごめかせながら、家人たちの宴を目を細めて、まぶしそうに眺めていた。


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