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白磁〔小説 葉子の恋 8〕 [葉子の恋〔小説〕]

 その年も押し詰まったころ、新田は大阪に行った。特急ハト号で、東京・大阪間の8時間、新田邦夫は自分でたちあげた投資案件の資料に目を通していた。ときおり車窓から眺める重い灰色の空は、今にも泣き出しそうであった。
 キタの大阪本社で出張の仕事を済ますと、新田は東大阪までタクシーを飛ばした。見慣れた景色が、ビル街から瓦屋根の古い町並みに変わり、無機質な町工場の風景に変わっていく。小一時間も走ったところで、木枯らしの中、灰色のバラック建ての倉庫が小さな工場に重なるように建っている敷地の前で彼は車を降りた。
 工場の外階段を上ったところにある二階の事務所では、数人の事務員が彼を見て挨拶した。一番奥の机にいる、太った年配の男が事務所の真ん中にあるガスストーブのところまで出てきて、白髪まじりの五分刈り頭をペコリと下げた。
「やあ、尾木さん」と新田は片手をあげて、男に言った。
「どうなんだ。まだモノは足りないのか」
 尾木は困ったような顔をして、
「あきまへん。ぜんぜんあきまへんわ、新田はん。第一、釜山から矢の催促ですわ。でも、あかん。値がすり合いまへん。釜山のほうにも予算があるさかいに」と、腰の手ぬぐいで顔の汗をぬぐった。
 ストーブの上で大きなヤカンが怒ったように蒸気を出している。広くもない部屋は暑いくらいだった。


「釜山?テグじゃなかったのか」
「そりゃ、新田はん、夏までの話でっせ。秋になったら北の攻勢で、味方は釜山まで後退して、今月は...」
「うちの本社が集めた情報と君の話はだいぶくいちがうな」
 新田は判断に焦っていた。そんな新田を横目で見るようにして、尾木は
「情報て、それが戦争や、新田はん」と言った。

 新田は、尾木の言い分に、結核で兵役をのがれた自分に対する嘲りを感じずにはいられなかった。尾木は、南方戦線で生死の境をさまよってきた男である。
 新田は工場が閉まるまで事務所にいて、状況分析の詰めと追加投資の案件について、できるぎりの方面と相談した。しかし絶望的な見通しは変わるべくもなかった。

 新田は、多くの人がそう思っていたように、朝鮮戦争は半年で終結すると思っていた。そして半年間というタイムスパンで、朝鮮半島の特需を計算し、大きな賭に手を染めたのである。
 彼の計算によれば、戦争は長くても一年で南の完勝で終わらなくてはならなかった。
 そうして彼は終戦を待った。しかし予想に反して、戦争は北側がソウルを陥落し、あっというまに釜山まで南を追い詰め、半島全土を真っ赤に染めた。
 9月半ば、ようやく米軍の仁川上陸作戦により、南側は半分をとりもどした。それを逆境のなかの機会とみた新田は、さらに大幅な投資に踏み切った。それは投資というよりも賭けと呼ぶべきであった。
 しかしその後、断片的に入ってくる情報はけっして楽観を許さなかった。実際、中国人民義勇軍が参戦した昭和25年末から26年にかけて、南側はもっとも厳しい情勢に陥った。そしてその後、朝鮮半島では500万という未曾有の戦死者が出ることになる。
 破滅という文字が、新田の脳裏に浮かんだ。今回は質の悪い融資も受けている。会社にも秘密で動いている自分のビジネスである。いったん落ちはじめたら、もがけばもがくほど自分で落ちていくアリ地獄であった。

 東大阪からの帰路、新田は梅田でタクシーを降りたものの、定宿のホテルに足が向かなかった。阪神線に乗って三宮の山側にある小さな料亭を訪ねた。
 いつ来てもここの入り口は人目につかないな、そう思いながら彼は「月兎」の玄関をくぐった。
 出迎えた若い仲居は新顔だった。
「いや、僕はいいんだ。奥に用があるだけだから」
 新田は手を払うように振って、薄暗く狭い廊下をずっと奥に入った。階段横の狭くなっているところを長身の身体を折るようにして入り、奥の和室の炬燵に入った。家の作りが自分が育った家のように新田の身体に染みついていた。
 コートを脇におくと、新田は炬燵で横になった。天井の灯りを眺めながら、これが戦争というものだ、という尾木の顔を思い出した。身体が温まると空腹を覚えた。そして、いつの間にか眠ってしまったようだった。

 目を覚ますと、化粧のにおいがして、ぼんやりと女の横顔が新田の視界に入った。新田は、自分にかけられている羽織を脇にやって、ゆっくりと身体を起こした。
「あ、かんにん。起こしてしもた?」
 和服の小柄な女は、寒そうに炬燵に両手をさしこんだまま、そう言って微笑んだ。新田はぼんやりとしてその声を聞いた。
「女将はお座敷かい」
「おかあさんは宮戸川やから、すぐ戻りはるわ」
 薄暗い床の間にひっそりと白磁があった。どうやら本物の李朝らしい健気さと品に、新田はこの李朝は誰かに似ていると感じた。場違いなところに古典が生きていた。それは異国の、こんな混乱と無意味さの時代に、泥の中でさえ気品を失っていなかった。
 自分は泥のほうに属すると彼は思った。


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