SSブログ

生と美(続)世界の意味

生と美(続)世界の意味

ふたたび河合隼雄の発言から、

「現代というか、近代は、死ぬということをなるべく考えないで生きることにものすごく集中した、非常に珍しい時代ですね。それは科学・技術の発展によって、人間の『生きる』可能性が急に拡大されたからですね」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫、p.189)

河合は、動物の中で人間だけが精神をもつが、それの根本にあるのは、人間だけがいつか自分が死ぬということを知っているということ、その上に生が構成されることだと言う。

 

だから近代以前の人間は、「死」を「生」の中に取り組んで生きていた。これについては、フランスの社会史研究者たちが「死の社会史」として中世の文書を資料にして分析した。中世ヨーロッパ人は、家族の死を近代人のようには嘆かなかったという。それはあるべく循環がひとつ回転しただけにすぎないからだ。

しかし僕たち近代人にとっては「死」は「生」の循環から理解されない。それはたんなる「生」の終焉にすぎない。死は意味を喪失した。人間の死亡率は100%であり、どんな人間もいつかは必ず死ぬことを僕たちは知っている。近代科学(医学)によって、人間の「生」を延長させることはできる。しかし無限に延長させることはできない、死から逃れることはできないのだ。死の意味喪失が近代文化の根本にある。

しかし無意味な世界のなかでは、人間は生きることはできないだろう。少なくとも、活動的に日常の仕事にいそしむことはとうてい困難だ。死が意味を失ったことは、世界が意味喪失したことだからだ。今や、生きるためには「戦略」が必要となった。

生の戦略として何がでてきたか。近代人は「死ぬことをなるべく考えないで」「生きることに集中」しようとした。これはフーコーが書いているような、近代社会における、病院組織による「死の管理」「病気の管理」「死の隔離」と関係がありそうだ。近代人の世界では「死」は「非日常」で「異常」な世界に属する、あってはならない事に属するようになった。だから病気になると、閉ざされた空間に「隔離=管理」してしまい、「生」の「日常」的な世界から見えなくする。その結果、社会はよけいな心配をせずに仕事(生産)に励むことができる。こうして近代社会は、これまでのどんな人類よりも大きな生産力を手に入れることができた。

こういう近代社会のような世界は美しいだろうか。 日常の、日々の仕事を軽視するのではないし、ましてや馬鹿にするのでもない。単に僕は、そんな人生は美しいだろうかと疑問に思うだけだ。

ここで、チェーホフの「退屈な話」を思い出す人も多いだろう。ニコライ・ステパノービッチ老教授の、あの世界の意味を問う話だ。この作品が、チェーホフが医学部を出たばかりの29歳で書かれたこと、有名なサハリン調査による世界観の転換の前に書かれたこと、「かわいい女」(39歳)という裏側からの作品も存在するということ、を考えても、「退屈な話」は世界の意味、世界の美しさ、人生の美しさというこのエッセイのテーマに深く関係する。

村上春樹の作品なら、生と死の関係はほとんどすべての作品にからんでいるが、やはり『ノルウェーの森』という後世に残る佳作をあげないわけにはいかない。生と死と性がこの無駄のない作品のテーマだ。この長編の土台となった『蛍』から、テーマが展開していることは言うまでもない。作者は「死と性を描いた」とどこかで自己批評しているが、その裏側には「生」が、人間のディスコミニケーションのなかで捨て去られてしまった現代人特有の「生」がある。

友人の本で『生の社会学』(東大出版会、2008年)には、文学や理論の話ではなく、高度消費社会のライフスタイルから同じテーマについて言及がある。現代は「未来の喪失」(p.15)した時代だという。「生」の無意味化とは、「現在」自分がしていることが意味を喪失したということだ。現代は、現在自分がしていることが未来のために何も役立たない、無関係になっている時代だ。そういう意味で、藤村正之は「未来の喪失」と言っている。

未来を喪失した僕たちは、どんな戦略に出たか。藤村によると、資格を取るとか、手堅いリスクヘッジ戦術によって、手の届く範囲の個人的な幸福感を手に入れようとしているという。

「次第に、理想や夢を語る大きな物語を喪失した私たちは、個々人の<将来>という実現可能で手の届く範囲にある小さな物語にこだわり、その物語を支えてくれる個人アイデンティティやファミリーアイデンティティ模索の時代に投げ出されたといえる」(藤村正之『生の社会学』p.18)

現代人は「未来」を喪失した替わりに「将来」を得た。しかし、その生の戦略には足元に欠陥が見えている。個人の人生上の不安はヘッジしてくれても、個人の人生に意味を回復してくれないという暗黒が足元にひろがっている。

そして悪いことに、現代人は誰でもその暗黒を知ってしまっている。だからこそ人生の「感動」を何よりも欲するのが現代人、高度消費社会の人間だ。そんなことを藤村は書いている。その証拠が、ディズニーランド、ワールドカップ、オリンピックなどなどのマスコミによる「作られた感動」を、現代人は、それが作られていると知りながら、感動していることだという。

まさかこれがほんとうの感動であり、人生の意味だとは、僕たちは誰も思っていないのだ。藤村が言うように、僕たちはマスメディアという文化装置が提供するしかけを、少し離れたところから「感動」している。つまりコーラを飲むように感動を消費している消費者にすぎない。

現代人が「将来」ではなく、「未来」をとりもどすにはどうしたらいいのか?

前にも書いた相対主義的な人生観が、つまり後期のチェーホフのような「偏在する調和」が必要になるのだろうか。僕はドストエフスキーのいう「もっとも美しい人間」ムイシュキン公爵の可能性を否定しない。人生の中で「美」を追求することは軽薄で重厚だ。

 


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

生と美癒しのArt Pepper ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。